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榛原空襲

ページID:0020004 更新日:2025年10月1日更新 印刷ページ表示

「戦争は、最大の人権侵害です」 榛原空襲を伝えていくこと

太平洋戦争では、古都奈良や京都は文化財が多かったので、被害が少なったと言われたことがありましたが、太平洋戦争末期の昭和20年(1945)に、「奈良空襲」と呼ばれた県内15箇所で、爆撃機や戦闘機を使った空爆があり、多くの死傷者がでています。

特に、宇陀市(旧榛原町)では、7月24日の午前9時過ぎに大阪方面に向かう3両編成の近鉄電車が、トンネルを出たところでアメリカ軍のグラマン戦闘機2機により、機銃掃射を受け、榛原萩原地区内の近鉄高架辺に停車しました

記録では被害者は、死者11人、負傷者27人の県内最大の悲劇となりました。(死傷者はもっと多いとの証言もある)

その後、昭和50年(1975)には、近くにお住いの有志の方々により、供養塔が建てられ、更に、市教育委員会(文化財課)も地元要望を受け、「榛原空襲の出来事や戦争の記憶が忘れないよう、後世に伝えるため」にと、近鉄と協議を重ね、平成26年(2013)3月に、近鉄高架下の弾痕近くに、案内板を建てました。

榛原空襲についての看板の設置榛原空襲についての看板

榛原空襲による弾丸痕

私たちは、この事実を今日の平和の尊さを考える場所として、後世に伝えることが大切なのではないでしょうか。