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織田信雄

ページID:0003517 更新日:2024年12月16日更新 印刷ページ表示

織田信長の次男。元和元年(1615)徳川家康から大和国宇陀郡、上野国甘楽郡など5万石を与えられ、宇陀松山初代藩主となるも、信雄自身は京都に住んだ。信雄没後は高長そしてその子孫(長頼・信武)が4代にわたって宇陀松山を治め、城下町松山を繁栄させた。

宇陀の地で受け継がれし織田の血脈織田信雄

織田信雄のゆかり地

宇陀松山

宇陀松山の画像

もともとは秋山氏という有力国人の城下町であったが、織田信長、豊臣秀吉の勢力伸長に伴い豊臣家配下の大名が治めた。大坂の陣の後、城主であった福島正則の弟・福島高晴が放逐された後に織田信雄がこの地を与えられ、初代松山藩主となった。元和元年(1615)に城下町の東にあった城は破却され、今は石垣のみが残る。現在は重要伝統的建造物群保存地区に選定され、古い街並みを現代に伝えている。

徳源寺

徳源寺の画像

初代松山藩主織田信雄の墓所で、3代目長頼も父の高長の菩提を弔うため数棟の建物を建立した。織田家が松山から兵庫県柏原に移って以降は衰退した。開山像や織田家位牌などを祀り、境内には織田四代の五輪塔も並んでいる。

室生寺

織田信雄廟

2代目藩主高長が万治2年(1659)室生寺を世話することになり、その際初代信雄の菩提料として年米50石を納めあて、廟を建てたと伝わる。