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北畠親房

ページID:0003512 更新日:2024年12月16日更新 印刷ページ表示

三重県度会郡玉丸城を本拠とし、落城後は多芸(多気)を本拠にした。初代伊勢国司である三男・顕能は交通の要衝でもある宇陀を勢力下に置いていた。後醍醐天皇、後村上天皇に仕え、南朝の体制を支えた重臣であったが、南北朝時代の争乱で南朝の敗色が濃くなるさなか、榛原福西の灌頂寺で没したと伝わる。室生寺にも伝・北畠親房の墓があり、娘で後村上天皇の中宮・新陽明門院(顕子)の墓も榛原笠間にある。

後醍醐天皇政権の屋台骨北畠親房

北畠親房のゆかり地

灌頂寺跡

灌頂寺跡の画像

北畠親房の居館跡と伝わる。創建時期は不明であるが、鎌倉時代から南北朝時代にかけては相当の寺勢を誇ったと考えられる。北畠親房はここで没したと伝わり、現在それを示す石碑が建っている。

室生寺

北畠親房墓

室生寺本堂の西南方には五輪塔があり、古来北畠親房の墳墓と伝わる。

新陽明門院陵

新陽明門院陵の画像

北畠親房の娘で後村上天皇中宮の顕子の墓。山陵近くの陽雲寺に閑居し、ここで没したと伝わる。